自分の意見とは何か
さいとーです
僕たちには物を考える能力がある
そしてそれを人間のアイデンティティとしている
だからこそ知性差別があったりだとか、身体障害者より知的障害者に強い嫌悪感を覚える人が多かったりする
しかし僕たちは僕たちが思ってるほど自分で物を考えていないのかもしれない
ツイッターとかで言論工作が話題になったりする
稚拙なものはすぐにわかるから話題になるけど、もっと巧妙なものは気づかないうちに、まるでアスベストのように僕たちの中に入り込んでいるかもしれない
僕たちは洗脳とか言論統制といったものに強い嫌悪感を示すけども、実は自分の意見なんてそもそもただの寄せ集めに過ぎないんじゃないかな
(じゃあ誰がその型を作ったのか…わからないけど、まあはじまりの始まりから相互作用だったんじゃないかなと思う。)
こういったことを肯定的に評価するか否定的に評価するか。
今の世界だと否定的に評価する方が多いだろう。
僕に関しては…わからない。できるだけ価値判断をしたくない。
自分の思考能力を過信しないこと。しかしその判断をしているのは僕の思考ではないのか?それはどこから来た?
こうしたことを考えるのは、自分なりに納得できる世界観を構築したいからか?本当のこと、を知った気になりたいからか?その意味は?自分を安心させること。自分の能力内で世界を扱えるようにすること。いや、むしろ世界を作ること。
メタ思考、思索の意味はなんだろうか、まあ全部自分を安心させるためか。っていうこの結論も自分を安心させるためだ。メタのメタ。もう何もわからない。だからこそのbe posive be simpleだった。
ていうか今日目の調子悪いからあんまこれ以上スマホを見たくないわ。まあこれ、文章のクオリティが低いことの言い訳です。